連載 サステナブルファイナンス論壇ウォッチ 第2回
「柳モデル」で覚醒するPBRと人件費
-エーザイから学ぶ投資家との対話のアップグレード-
ESG・サステナブル投資を取り巻く環境は日進月歩で変化しており、新たな概念や言葉が次々と登場している。日々、数多くのニュースやレポートが発信されていて、アセットオーナーの中には消化不良を感じている向きもあるだろう。
そこで本シリーズでは、立教大学大学院ビジネスデザイン研究科客員教授の井潟正彦氏に、日本の投資家が注目すべきテーマを1つ選び、関連するレポート解説いただく。
今回は、製薬会社エーザイの専務取締役CFOで、早稲田大学大学院会計研究科客員教授の柳良平氏が提唱する、いわゆる「柳モデル」について解説いただいた。
第1回 「EUで導入された「SFDR」とは何か?」はこちら
伝統的な株価評価指標としてのPBR
株価評価指標の1つにPBR(Price Book-value Ratio、株価純資産倍率)がある。株式を売買する一般投資家にとっては、企業の将来の成長期待を反映するとされるPER(Price Earnings Ratio、株価収益率)やPSR(Price to Sales Ratio、株価売上高倍率)に対し、PBRは株価の下値と関連付けて活用される伝統的な指標として馴染みのあるものだろう。
例えば、インターネット上で公開されている証券用語集によると、PBRは「当該企業について市場が評価した値段(時価総額)が、会計上の解散価値である純資産(株主資本)の何倍であるかを表す指標であり、株価を一株当たり純資産(BPS)で割ることで算出できる」とし、企業が解散した場合に会計上入手できると想定されるBPS(Book-value Per Share)と株価が同額になる「PBR水準1倍が株価の下限であると考えられるため、下値を推定する上では効果がある」とされている。
一方、企業財務関係者の日常の実務において、自社のPBRの推移が強く意識されることは、従来さほど多くなかったのではないか。自社のPBRが1倍超の水準、すなわち自社の時価総額が会計上の純資産を上回っていたとしても、その超過分を例えば自己創設のれんとして貸借対照表で認識するようなことは認められていないからだ。
しかし今後、経営企画や財務、IR(インベスターリレーションズ)はもちろん、経営陣も自社のPBRの水準や推移について従来以上に関心を強め、説明できなくてはならない可能性が高まっているのではないか。PBRが企業と投資家との対話におけるESGをめぐる議論に有用な指標であることを実証する研究があるからだ。
エーザイ柳CFOによるIIRC-PBRモデル(柳モデル)
上場企業の時価総額のうちPBR1倍にあたる分は会計上で認識されている価値として「財務資本」と捉える一方、1倍を超える部分は市場で評価されているが会計上では明示されていない価値として「非財務資本」と位置付けるとともに、この「非財務資本」はESGと深く関連して形成されると唱えるのは、エーザイの専務取締役CFOで、早稲田大学大学院会計研究科の客員教授でもある柳良平氏だ。
柳氏の考え方と実証研究について簡潔に整理すると以下のようになろう。(なお、本稿は柳氏による文献に専ら基づいて執筆しており、参照・引用した文献は全て文末に列挙した)
- 時価総額=PBR1倍にあたる部分+PBR1倍超にあたる部分
- PBR1倍にあたる部分=貸借対照表上の純資産=会計上で認識されている価値として「財務資本」
- PBR1倍超にあたる部分=市場では評価されているが会計上では明示されていない価値として「非財務資本」
- 「非財務資本」は国際統合報告評議会(IIRC)によれば、ESGと同義と言える5つの資本(知的資本、製造資本、人的資本、社会・関係資本、自然資本)で構成される ⇒ 企業によるESGへの取り組みは非財務資本の拡大を通じて時価総額の増加、ひいてはPBRの上昇に織り込まれる
- エーザイによるESGへの取り組みと関係するKPI(重要業績評価指標)を選び、各KPIの定量的なデータとPBRについて統計的に有意な相関関係の有無を回帰分析によって検証する(その場合、ESGへの取り組みがPBRに反映されるまで一定の年数を要する「遅延浸透効果」を重視する)
- 検証結果を開示するとともに、投資家とのエンゲージメントにおいてエーザイのESGへの取り組みと企業価値向上との因果関係のストーリーを積極的に伝え、理解を促す
そして、柳氏による世界初の試みであることから「柳モデル」とも呼ばれる、この「IIRC-PBRモデル」に基づく実証分析によって、エーザイでは以下のようにESGへの取り組みに関するKPIと同社のPBRについての関係が定量的かつ有意に示唆されるとし、同社2020年統合報告書において開示が行われた:
- 人件費投入を1割増やすと5年後のPBRが13.8%向上する
- 研究開発投資を1割増やすと10年超でPBRが8.2%向上する
- 女性管理職比率を1割改善(例:8%から8.8%)すると7年後のPBRが2.4%向上する
- 育児時短勤務制度利用者を1割増やすと9年後のPBRが3.3%向上する
柳モデルの画期性
文末に列挙した一連の論文などを読んでいると、実務家としての柳氏が「企業のESGの取り組みは本当に企業価値につながるだろうか」を問い、研究者としての柳氏が「ESGという定性的なものをPBRに代表される定量的な企業価値に関連付けることはハードルが高い」と自ら認識しつつも果敢に挑み、柳モデルを結実するに至った気迫や執念さえ感じられる。企業がESGに取り組むべき意義とその促進に直結する以下のような指摘や試みも併せて、柳モデルが提示する画期性と慧眼には瞠目を禁じ得ない。
(1)ROE経営とESG重視の同期化
PBRはファイナンス理論において一定の前提の下で以下の数式でも表されることから、PBR1倍超を維持するには企業は株主の期待を上回る業績(「ROE-株主資本コスト」>0)を持続的に実現しなくてはならないことが示唆されている*1。
一方、柳モデルではPBR1倍超には「非財務資本」、つまりESGと同義と言える5つの資本(知的資本、製造資本、人的資本、社会・関係資本、自然資本)の拡大を必須とする。すなわち柳モデルを通じて、企業が株主の期待に持続的・長期的に応えていくことと、ESGへの取り組みを推進することに矛盾が無いことが非常にシンプルに明示される。
柳氏は「同期化」「相互補完的」と述べるだけでなく、「論語(非財務価値や社会貢献)と算盤(財務的価値やエクイティ・スプレッド)」「会社は社会の公器」「三方よし」「人本主義」とも整合的であると説明し、企業は「ROE経営」をクリアした上で、非財務情報を「エクイティ・スプレッドとの価値関連性」において説明責任を果たしていくことが持続的な企業価値評価の向上につながる、と指摘する。
(2)「ESG EBIT」の提唱
柳モデルによってエーザイの人件費と研究開発費が各々5年後、10年後にPBR向上をもたらすことが実証されたことに基づき、柳氏は人件費や研究開発費は「費用」というより、将来の企業価値をもたらす非財務資本を構築するための「投資」と考えられるとし、「営業利益」に人件費と研究開発費を足し戻した数字を「ESG EBIT」(ESGの営業利益)とし、同社2020年統合報告書に開示した。
「本来それだけの潜在的利益がある」ことを加味した「真の利益」を示す「ESG会計の価値提案」であるとともに、ショートターミズムで行動する投資家から出がちな、人件費と研究開発費を犠牲にして目先の利益を求める声に反論するためでもある、とのことだ。プリンストン大学教授の清滝信宏氏はインタビュー(日本経済新聞朝刊、2019年9月18日)で「例えば多くの日本企業が1990年代後半に採用を大幅に減らしたことは、現在に至るまで成長の足かせになっていると考えている」とし、「新しい技術やアイデア」「スキルを高める」といった研究開発に直結する人的資本は「無形資産(筆者注:本稿では非財務資本)の中核」と述べている。人件費を企業にとって「費用」ではなく「投資」であるという視点に基づいて従来の財務会計の捉え方に修正を図ろうとする「ESG EBIT」の考え方は、日本企業が「失われた20年」を二度と繰り返さないための極めて重要な提唱ではないか*2。
(3)日本初のHBS「従業員インパクト会計」を開示
なお、人件費などを社会や地域にとって「インパクト」をもたらすものという視点に基づいて従来の財務会計の捉え方に修正を図り、投資家や経営者の健全な意思決定を促そうとするESG会計(社会的インパクト会計)の研究も、ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)のジョージ・セラフィム教授を中核とするインパクト加重会計イニシアティブ(IWAI)で進められている*3。柳氏はセラフィム教授のチームと共同研究も行い、最新(2021年8月公表)のエーザイ価値創造レポート(本年より同社は統合報告書を改名)で、HBSの認める日本第一号のIWAIケースとして、社会的インパクトの中でも特に人財の価値に注目した「エーザイの従業員インパクト会計」の開示に至っている。
「従業員インパクト会計」は従業員の給与満足度の飽和点、男女の登用格差や平均給与差などを考慮したアプローチに基づくので、例えば「当社は多額の給与を支払っている」と自慢する企業があったとしても、万一男性ばかりであれば必ずしも人件費の全額が正のインパクトとして企業価値に反映されるとは限らない方法論である。「ESG EBIT」と並んで「従業員インパクト会計」を日本初で具体的に開示したことは、サステナビリティを重視する次代の資本主義の確立に向けて、それこそ社会的貢献が極めて大きい作業と評価されるべきだろう。
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