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連載 サステナブルファイナンス論壇ウォッチ 第2回
「柳モデル」で覚醒するPBRと人件費
-エーザイから学ぶ投資家との対話のアップグレード-

2021年10月4日
井潟 正彦 / 立教大学大学院 ビジネスデザイン研究科客員教授

柳モデルに基づく対話アップグレードへの期待

(1)日本企業によるESG説明不足の解消のために

自社のESG活動が企業価値評価にどのように反映しているかを具体的に、定量的に投資家との対話で説明できること(柳氏によると「株主資本主義からステークホルダー資本主義にシフトする時代にあって、新しいアカウンタビリティのメカニズム」)は、エーザイだけに求められていることではない。他の企業でも然りである。

柳氏が実施している日本の内外の機関投資家向けのアンケートによると、例えば国内外の機関投資家のほとんど(7〜8割)が昨年も今年も、(a)「資本効率とESGを両立して価値関連性を示してほしい」、(b)「ESGの価値は、本来ならば全て、あるいは相当部分は、PBRに織り込まれるべき」と答えており、また、知見の高い長期投資家は非財務的価値が長期では財務的価値に変換され同期化できることを理解している一方、海外の投資家を中心に、日本企業のESGの説明不足に不満を募らせている、とのことだ。

柳モデルによってエーザイについて得られた実証研究の結果が、他の企業でもあてはまるような一般化できるものであれば、他の企業も柳モデルに基づくアプローチの採用を投資家との対話における実務の選択肢として十分に検討の余地が生まれる。それを確認すべく、柳氏は「TOPIX100」を構成する企業を対象に柳モデルの頑強性テストまで行っている。そして、人件費、研究開発費のいずれについても1割の増加が7年後にPBRを約3%引き上げるという結果を得たとのことだが、これは極めて意義深い。エーザイ以外の上場企業も柳モデルを先行研究と位置付け、自社のESGへの取り組み(KPI)と企業価値との関係を大いに検証する意義があることが示唆されるからだ。

 2021年5月にKDDIは柳モデルに基づいた分析を決算説明資料で開示した。「KDDIのESGと企業価値の関係性実証」として「温室効果ガス排出原単位を 1割減らすと6年後のPBRが 2.4%向上」という興味深い検証結果であるが、今後、もっと多くの上場企業において同様に、柳モデルのアプローチによる定量的な検証への取り組みと開示が広がることを期待したい*4

*4 柳氏は「もちろん、すべての企業がモデルをつくって実証するというわけにはいかないだろう」「企業がESGと企業価値の相関の証明にすぐに取り組むことは、容易ではない場合も多いと思われる」と他社への配慮を示し、「自社で実証分析ができなくても、論文引用や過去の研究等からの類推でもかまわないので、ESGと企業価値に関わるモデルやフローチャートを紹介しながら、自社の具体的な取り組みとの関係性を明らかにし、それを伝える不断の努力が欠かせないのである」とも述べている。なお、エーザイとKDDIによる実証分析に協力支援を行ったアビームコンサルティングの今野愛美氏は、エーザイ2020年統合報告書での柳氏との対談で「企業は定量データやデジタル分析ツールをESGの取り組みと組み合わせ、非財務と財務を融合させたマネジメントの仕組みや基盤を整備すべきだと考えています。対外開示があるタイミングだけでなく、恒常的に経営層がウォッチするものの中に非財務データも含まれており、それを基に経営判断やステークホルダーとのエンゲージメントや開示を行うこと。これが、企業価値の正当な評価につながっていくと期待しています」と述べている。企業が柳モデルによる分析に取り組もうとする意思決定は、検証結果のみならず、そのプロセスの社内構築・設計において次代の経営に不可欠な様々な発見や改善、変革などがもたらされ得る点でも重視されるべきであろう。

(2)PBR1倍割れ企業の減少に向けて

日本の上場企業が自社のESG活動について説明不足に陥っているという懸念は、PBR1倍割れを不本意にも解消できないままになっている企業が他国に比べて多いという事実を柳モデルの考え方で解釈することでもその深刻さが推し量られる。

長期投資家として有名な渋澤健氏はエーザイ2021年価値創造レポートでの柳氏との対談で次のように述べている。

企業は自分たちの見えない価値の可視化に力を入れた方がいい。そうすると、万年PBR(株価純資産倍率)1倍割れの会社は少なくなるはずです。PBR1倍割れの会社というのは、そこで働いている人はマイナスということで、資本市場は相当厳しいメッセージを発しています。会社は、それは違います、こんなに素晴らしい人財を抱えていますと反論するのでしょうが、人財が可視化できていないということです。投資家が一番見えないのは、会社には毎日どのような想いで人が通っているのか。社長やIR部長の顔は見えるかもしれませんが、研究所の研究者やアシスタントの方々については、顔も気持ちもわからない。可視化を工夫すべきところだと思います。


日本企業にとって渋澤氏のこの発言は、国内外の長期投資家たちから寄せられる期待と要望を代弁する声として傾聴すべきものであり、その対応は急務ではないかと確信する。

本稿の執筆にあたり参照・引用した柳氏による文献

柳良平・目野博之・吉野貴晶「非財務資本とエクイティ・スプレッドの同期化モデルの考察」、『月刊資本市場』、2016年11月号

□柳良平・兵庫真一郎・本多克行『ROE経営と見えない価値 高付加価値経営をめざして』、中央経済社、2017年3月

柳良平・吉野貴晶「人的資本・知的資本と企業価値(PBR)の関係性の考察」、『月刊資本市場』、2017年10月号

□柳良平『CFOポリシー』、中央経済社、2020年1月

□柳良平「資本コストとは。ー資本コストを認識することの経営戦略上の意義ー」、『東京証券取引所・企業価値向上経営セミナー』、2018年12月

(資料)

https://www.jpx.co.jp/equities/listed-co/award/nlsgeu000002dzl5-att/mr.yanagi_lecture_doc.pdf

(講演録)

https://www.jpx.co.jp/equities/listed-co/award/nlsgeu000002dzl5-att/20181225_lecture_report.pdf

柳良平「ESGのKPIとPBRの価値関連性~エーザイの事例~」、『月刊資本市場』2020年2月号

柳良平「日本企業の価値創造に係る資本市場の視座~2020年グローバル投資家サーベイ結果~」、『月刊資本市場』2020年6月号

□柳良平「ESGの『見えざる価値』を企業価値につなげる方法」、『Diamond Harvard Business Review』、2021年1月号

□柳良平・杉森州平「ESGのPBRへの遅延浸透効果と統合報告での開示」『企業会計』、2021年2月号

柳良平「ESG会計の価値提案と開示」『月刊資本市場』2021年4月号

柳良平「日本企業の価値創造に係る資本市場の視座2021~2021年グローバル投資家サーベイ結果~」『月刊資本市場』2021年7月号

□柳良平「従業員インパクト会計の統合報告書での開示~インパクト加重会計イニシアティブの日本第1号として~」『月刊資本市場』2021年9月号

柳良平、他「今後の運用先企業の評価は如何にあるべきか」、『野村アセットマネジメント・オープン研究会・第三回(パネル・ディスカッション)』、2021年3月

 

井潟 正彦

立教大学大学院 ビジネスデザイン研究科客員教授

井潟正彦 Masahiko Igata
大手邦銀、外資系信託銀行、シドニー大学留学(MBA)を経て、野村総合研究所に入社。野村総合研究所アセットマネジメント研究室長、野村ホールディングス経営企画部次長、野村資本市場研究所研究部長、同執行役員、同常務、野村サステナビリティ研究センター・シニアフェロー(兼務)などを経て、2021年4月より株式会社 助太刀 常勤監査役。2016年度より立教大学ビジネスデザイン研究科特任教授、2020年度より同客員教授。金融審議会「投資信託・投資法人法制の見直しに関するワーキング・グループ」専門委員、経済産業省「持続的成長への競争力とインセンティブ~企業と投資家の望ましい関係構築~」(通称・伊藤レポート)会議メンバーなども歴任。

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