はじめに
今回は南アフリカ共和国を取り上げます。
南アフリカの確定拠出年金(DC)制度は、新興国の中でも非常に特徴的な発展を遂げており、先進国の年金制度とは異なる課題に直面しながら、それに対応する制度改革を積み重ねてきました。南アフリカの退職給付制度を考えるにあたって、DCへの依存度が高いということを押さえておかないといけません。背景は以下の二つです。
・公的年金の給付水準が薄い
南アフリカの公的年金(Older Persons Grant)は、基本的に低所得者向けのセーフティネット(資力調査を伴う基礎年金のみ)であり、厚い報酬比例の公的年金が老後所得の柱になる、という構図ではありません。そのため、労働者は、退職後の生活資金を職域の退職給付に依存する度合いが高くなります。
・確定給付年金(以下DB)からDCへの移行が急速に進んだ
さらに、その企業年金も1980年代から90年代にかけて、DBからDCへの移行が急速に進みました。アパルトヘイト末期から撤廃期にかけて、労働組合は「ブラックボックス化された企業主導のDB」に不信感を抱き、「自分たちの資産として目に見え、かつ必要に応じてアクセスできるDC」への移行を強く要求したことが、早期にDC化が進んだ社会的背景です。
DBが中心であれば、運用リスクや長生きリスクは制度・企業側が負い、老後所得の安定はある程度担保されます。一方、DCではそれらのリスクがすべて個人に移転します。「どれだけ拠出したか」、「どう運用したか」、「転職時に引き出さなかったか」、「退職時にどう受け取るか」がそのまま老後所得に繋がります。
つまり南アフリカは、単に「DCの比重が高い国」というより、DBからDCへの移行により、老後保障がDCに強く依存する国だと言えます。
その結果、いくつか問題が生じました。最大の問題は、運用利回り以前に、年金資産そのものが老後を迎える前に消えてしまう「Leakage(途中流出)」でした。
背景には、南アフリカの労働市場は流動性が高く、また高い失業率や慢性的な生活苦といった新興国特有の社会的背景があり、転職や離職の際に退職資産を比較的容易に引き出せる仕組みが存在したためです。多くの労働者が、職場を離れるたびに年金資産を全額引き出してしまい、長期間にわたる積立と複利効果によって、資産を育てるというDCの前提は崩れました。拠出した資金が残っていなければ、退職後の所得は事実上ゼロになります。
そのため、南アフリカの政策立案者や年金業界が最大の課題として掲げたのが「Preservation(資産保全)」の徹底でした。南アフリカのDC改革は、「資産保全をいかに実現するか」という試行錯誤の歴史と言えます。
南アフリカのDC改革
個人の「一時金(現金)への強い欲求」と「途中流出)」を食い止めるため、政府は段階的に強力な制度介入へと踏み切ります。
その重要なステップとなったのが「デフォルト規則(Default Regulations)」の導入、そして最終形態とも言える「Two-Pot System(2ポット制度)」の創設です。
・Default Regulations
自己責任を前提とするDCであっても、制度の側で「よりよい初期設定」を用意する必要があるという発想です。退職基金に対して、以下のような「初期設定」を整備することを求めました。
運用商品のデフォルト:加入者が自分でファンドを選ばない場合、年齢やリスクに応じた適切な運用商品(ライフサイクルファンドなど)に自動的に資金を振り向けます。
自動保全のデフォルト:転職時、自ら「引き出す」と意思表示しない限り、資産は自動的に元の基金で運用継続、または新しい職場の基金へ移換されます。
年金受け取りのデフォルト:退職時、一時金での全額引き出しではなく、終身年金などで受け取る持続可能なプランを「デフォルト」として提示します。
「引き出したいなら、あえて面倒な手続きをしなければならない」というハードルを設けることで、資産の流出を押しとどめようとしたのです。
・Two-Pot System(2ポット制度)
デフォルト規則によって、流出に一定の歯止めはかかったものの、資金ニーズはあり、資産保全とうまく両立させる必要があります。そのため、2024年に導入されたのが「Two-Pot System(2ポット制度)」です。この制度は、毎月の拠出金を強制的に「2つのバケツ(Pot)」に分割して積み立てるという仕組みです。(ただし制度導入前の残高はVestedとして別のPotに管理されます。)
貯蓄ポット(Savings Pot):拠出額の3分の1。退職前であっても、一定の条件(年に1回など)で引き出しが可能なポットで、病気、失業、借金返済など、緊急時の生活資金(流動性)として機能します。
退職ポット(Retirement Pot):拠出額の3分の2。退職年齢に達するまで、いかなる理由があっても引き出すことができないポットで、退職後は原則として年金で受け取ります。
この制度は、「老後まで守る部分」と「緊急時にアクセスできる部分」を切り分けることで折り合いをつけようとしたのです。
日本の示唆
1.「完全ロックイン」と「流動性」のバランス
日本のiDeCoや企業型DCは、原則として60歳まで資金を引き出すことができません。(ただし脱退一時金の例外はあります)
資産保全の観点からは強固ですが、一方で、この「完全ロックイン」が、手元の資金に不安がある若年層や低所得層にとって、加入をためらわせるハードルとなっているのも事実です。 南アフリカの Two-Pot System のように、一部に緊急時の引き出し余地を持たせつつ、老後資産の本体は守るという発想は、日本の制度普及や今後の制度改革を考える上で、一つの示唆となるかもしれません。
2.運用よりも保全という視点
DCに関する議論は、運用利回りや手数料、商品ラインアップといった「運用面」に行きがちですが、南アフリカでは、どれだけ運用面を磨いても、途中で資産が流出すれば老後所得は積み上がらないという、より根本的なことが起こりました。
日本では原則として途中引き出しができないため、南アフリカのような大規模な流出は起こりません。しかし、転職時に移換手続きを忘れると、資産が「自動移換」され、運用されないまま手数料だけが引かれ続けるという「見えない漏出(塩漬け)」の問題が存在します。 南アフリカの「手続きしなくても自動的に運用が引き継がれる(自動保全)」という制度設計も、日本への示唆となると思います。
南アフリカのDC改革は、運用改革ではなく「老後資産をどう失わないか」という地道な改革の積み重ねでした。DC残高が拡大を続ける日本にとっても、この視点は重要です。