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なぜ日本の実質賃金は上がらない? 高市新首相が挑むべき「労働分配率」 と「労働市場の歪み」 の正体

第一生命経済研究所の永濱氏が読み解く、経済・市場展望の手がかりは
2025年10月28日
永濱 利廣 /  第一生命経済研究所 経済調査部 首席エコノミスト

国内外を覆う不確実性によって景気や市場を見通すことは困難を極めています。そこで国内屈指の著名エコノミストである、第一生命経済研究所の経済調査部で首席エコノミストの永濱利廣氏に、経済・市場の今後を読み解く手がかりになるテーマについて解説していただきました。
※本稿は、10月20日掲載の第一生命経済研究所 経済調査部 首席エコノミスト、永濱 利廣氏のレポート「サナエノミクスの政策課題~いかに供給力強化と実質賃金上昇を体現できるか~」を抜粋・再編集したものです。

要旨

o高市自民党総裁は公約の一丁目一番地を「大胆な「危機管理投資」と「成長投資」で、暮らしの安全・安心の確保と「強い経済」を実現」としている。そして高市氏は、自公政権が衆参両院で過半数割れしていることもあり、今回の総裁選に向けた公約の中でも、野党と連携の下で政策修正の可能性も示唆している。

o高市氏が描く経済政策は基本的にイシバノミクスから一線を画し、野党の政策も取り入れて、これまでの緊縮財政の度合いを緩めるということになろう。高市氏の経済政策運営のカギを握るのは、名目経済成長率が長期金利を上回る局面では財政規律よりも経済成長を優先し、いかに大胆な投資が実現できるか。

o少なくとも総裁選の公約通りに政策が進めば、日本経済における最大の課題である供給力の強化が進展することになろう。そうした意味では、高市氏の経済政策も初期段階では、いかに国民の暮らしと安全・安心を確保すべく、25年度補正予算に政策を総動員し、雇用と所得を増やし、消費マインドを改善し、税収が自然増に向かう「強い経済」を実現できるかにかかってこよう。

o賃上げと経済活性化を伴う良いインフレを定着させるために、最も手っ取り早い取り組みとしては、労働時間のマイナス寄与を縮小させるべく、行き過ぎた労働時間規制の緩和が効果的。その点、高市氏が掲げる心身の健康維持と従業者の選択を前提とした労働時間規制の緩和は効果が期待できる。

o高市氏が掲げる産業界のニーズを踏まえて活躍する人材、未来成長分野に挑戦する人材を育成すべく、大学改革、高専や専門高校の職業教育充実等の進捗に加え、交易条件のマイナス寄与を縮小させるには、高市氏が掲げる原発も含めた電力供給力向上などに向けた取り組みも重要。

o中途採用を積極的にした企業や転職者に対するインセンティブを施すなどにより労働市場の流動性を高めて、結果的に賃金上昇に結び付きやすくなる政策にも期待したい。官民ともより広く、都合のいい時間に働ける正社員の枠を増やす政策も必要。

oバブル崩壊後の政府の経済政策の失敗によって歪められてしまった価値観を、政策総動員により様々な側面から解凍していくことができれば、日本の実質賃金が安定的にプラスで推移することで消費マインドが改善し、税収が自然増に向かう「強い経済」を実現するチャンスは大いにあると期待したい。

はじめに

10月4日の自民党総裁選で、高市元経済安全保障担当大臣が新たな総裁に選ばれた。これをきっかけに、市場では金融・財政政策がハト派にシフトする期待などから日本の株価は大きく上昇している。

実際、高市早苗氏は公約の一丁目一番地を「大胆な「危機管理投資」と「成長投資」で、暮らしの安全・安心の確保と「強い経済」を実現」としている。そして高市氏は、自公政権が衆参両院で過半数割れしていることもあり、今回の総裁選に向けた公約の中でも、野党と連携の下で政策修正の可能性も示唆している。

そこで本稿では、現時点で高市氏が掲げている経済政策の分野に絞って、特徴と課題をまとめてみたい。

高市総裁の経済・財政政策

高市氏の経済政策スタンスの特徴としては、積極財政の色合いが強いことが指摘できよう。実際、今回の自民党総裁選でも、財源については「財政健全化を目的としない責任ある積極財政で税収増」をはじめ、「政府純債務残高の対GDP比を緩やかに引き下げ」や「税収の余剰分を当然使うが、赤字国債発行もやむを得ない」「法人税などの租税特別措置の見直し」などの発言があった(図表1)。

こうした中で、最優先課題である物価高対策では、生活の安全保障として物価高から暮らしと職場を守るとの決意を示している。実際、高市氏の公約における「経済政策」の項目のヘッドラインでも「様々なリスクを最小化し、先端技術を開花させるための「戦略的な財政出動」は、私達の「暮らしの安全・安心」を確保するとともに、雇用と所得を増やし、消費マインドを改善し、税収が自然増に向かう「強い経済」を実現する取組であり、その恩恵は未来の納税者にも及ぶ」としている。

図表

この文言を額面通りに受け止めれば、高市氏が描く経済政策は基本的にイシバノミクスから一線を画し、野党の政策も取り入れて、これまでの緊縮財政の度合いを緩めるということになろう。実際、物価高対策のメニューを見ても、自治体の交付金に推奨メニューを付けて拡充と独自色を示す中、ガソリンと軽油の暫定税率廃止をはじめ、年収の壁引き上げ、給付付き税額控除の制度設計など、先の参院選で野党が掲げていた公約が含まれている。

しかし、高市氏が経済の正常化を目指しつつ、財政健全化の旗を堅持していることは注目すべきだろう。というのも、高市氏は消費税減税には党内合意が必要と慎重なスタンスをとっている。また、政府債務残高の対GDP比を緩やかに引き下げて、財政の信認を確保することは望ましいことである。実際、日本経済がデフレからインフレ時代に移行する中、現状のように名目経済成長率が長期金利を大きく上回る局面では、ドーマー条件に基づけば無理にプライマリーバランスを黒字化しなくても、政府債務残高対GDP比の安定的な引き下げは可能である(図表2)。こうしたことからすれば、高市氏の経済政策運営のカギを握るのは、名目経済成長率が長期金利を上回る局面では財政規律よりも経済成長を優先し、いかに大胆な投資が実現できるかであろう。

図表

高市氏の「成長戦略」

こうした中、高市氏が総裁選時に経済安全保障の強化と関連産業の育成として「海外からの投資を厳格に審査する対日外国投資委員会を設置」を掲げたことは注目に値する。また、経済安全保障に不可欠な成長分野として、AI、半導体、ペロブスカイト・全固体電池、デジタル、量子、核融合、マテリアル、合成生物学・バイオ、航空・宇宙、造船、創薬、先端医療、送配電網、港湾ロジ等を掲げ、分野毎の官民連携フレームワークにより積極投資を行ない、大胆な投資促進税制が適用されることになりそうだ。

そして、食料安全保障の確立として、農業構造転換集中対策期間(令和7年度~令和11年度)に集中投資を実施し、全ての田畑をフル活用できる環境作り(転作支援から作物そのものの生産支援への転換、精緻な需要予測に応じた米生産の支援・需要の拡大、農地の大区画化、共同施設の再編・集約化、中山間地域支援の拡充、省力化・収量増に資するスマート農業の推進等)を実現するとしている。さらに、エネルギー・資源安全保障の強化面の投資として、地政学リスクに備え「国産資源開発」「国際資源共同開発」に積極的な投資を行なうとしている。

一方、成長投資と人材総活躍の環境づくりとして、スタートアップ減税の恒久化や「ラボから市場へ」のプロセス強化、心身の健康維持と従業者の選択を前提に労働時間規制緩和、産業界のニーズを踏まえて活躍する人材や未来成長分野に挑戦する人材を育成すべく、大学改革、高専や専門高校の職業教育充実等を進めることなども掲げている。

こうしたことからすれば、少なくとも総裁選の公約通りに政策が進めば、日本経済における最大の課題である供給力の強化が進展することになろう(図表3)。ただ、政府による拙速な財政引き締めのリスクもぬぐえず、年末に向けた税制改正の議論などについては細心の注意が必要になるだろう。

そうした意味では、高市氏の経済政策も初期段階では、いかに国民の暮らしと安全・安心を確保すべく、25年度補正予算に政策を総動員し、雇用と所得を増やし、消費マインドを改善し、税収が自然増に向かう「強い経済」を実現できるかにかかってこよう。

その他には、介護・育児・子供の不登校等が原因の離職対策にも注目だろう。具体策として、家政士の国家資格化を前提にベビーシッターや家事支援サービスの利用代金の一部税額控除や、企業主導型学童保育事業を創設し、企業内保育施設や企業主導型施設が病児保育を実施する場合の法人税減免などを掲げている。

さらに、健康医療安全保障の構築として「攻めの予防医療」(癌検診陽性者の精密検査・国民皆歯科健診の促進等)を徹底することで、医療費の適正化と健康寿命の延伸を共に実現するとしている。よって、こうした社会保障政策面でも、高市氏が掲げた公約が進展することが期待される。

図表

課題となる供給力強化と実質賃金上昇

以上を踏まえて、以下ではこれからの実質賃金の安定的な上昇に向けて、高市氏の経済政策運営に期待することについて述べてみたい。

33年ぶりの高水準となる春闘賃上げ率や32年ぶりの国内設備投資額という潮目の変化が起きている中で、賃上げと経済活性化を伴う良いインフレを定着させるためには、国内の供給力を強化し、日本経済を成長軌道に乗せていくことが不可欠だろう。

そのために、最も手っ取り早い取り組みとしては、労働時間のマイナス寄与を縮小させるべく、行き過ぎた労働時間規制の緩和が効果的だろう。過重労働を抑制することも重要だが、それによってもっと働きたい人の労働供給を抑制してしまっては本末転倒である。その点、高市氏が掲げる心身の健康維持と従業者の選択を前提とした労働時間規制の緩和は効果が期待できる。

また、米国に劣後する労働生産性の引き上げに関しては、世界で誘致合戦となっている戦略分野への投資拡大に加え、国内の立地競争力向上につながる税制優遇や、そうした国内供給を担う人材育成も重要になってくるだろう。これからは生成AI全盛の時代になり、ホワイトカラー人材の需要が減る一方で、手に職系人材の需要が増えることが予想される。こうした変化に対応すべく、高市氏が掲げる産業界のニーズを踏まえて活躍する人材、未来成長分野に挑戦する人材を育成すべく、大学改革、高専や専門高校の職業教育充実等の進捗も重要だろう。さらに、交易条件のマイナス寄与を縮小させるには、高市氏が掲げる原発も含めた電力供給力向上などに向けた取り組みも重要だろう。

一方、2024年以降の春闘賃上げ率が5%を上回る水準となったこと等で、一時的に実質賃金がプラスに転じる月もあり、今後のインフレ率低下とも相まって、来年度以降の実質賃金の安定的なプラスを期待する向きもある。

しかし、法人企業統計季報から簡便的に試算した労働分配率は1980年以来の水準まで低下しており、仮に労働生産性が上昇して交易条件や労働時間の寄与が押し上げに転じたとしても、実質賃金が上がりにくくなっている(図表4)。

図表

主な理由としては、労働市場の流動性が低いことで、経営側の人材流出に対する危機感が薄いことが指摘されている。こうしたことからすれば、これまでの企業の約三分の二を占める赤字企業には賃上げ優遇税制ではなく、中途採用を積極的にした企業や転職者に対するインセンティブを施すなどにより労働市場の流動性を高めて、結果的に賃金上昇に結び付きやすくなる政策にも期待したい。

さらに、年収の壁を意識して労働時間が抑制されていることも実質賃金の足を引っ張っている(図表5)。ここに関しては、すでに高市氏も提唱している基礎控除引き上げによりある程度の労働時間増が期待される。

図表

また、日本では就業者数の三分の一近くが非正規労働者であるが、実にその半分以上が都合のいい時間に働ける等として望んで非正規労働者となっている(図表6)。政府も選択的週休3日制の導入を進めているが、すでに民間では週休4日制など、より都合のいい時間に働ける正社員の枠も増えてきている。こうしたことからすれば、官民ともより広く、都合のいい時間に働ける正社員の枠を増やす政策も必要だろう。

日本は労働力不足というが、労働時間の減少や高い非正規労働者比率を見れば、まだ労働力の増加余地は残されている。日本の実質賃金が長期停滞してきた一因には労働者の努力不足などではなく、バブル崩壊後の政府の経済政策の失敗もある。それによって歪められてしまった価値観を、高市新政権下での政策総動員により、様々な側面から解凍していくことができれば、日本の実質賃金が安定的にプラスで推移することで消費マインドが改善し、税収が自然増に向かう「強い経済」を実現するチャンスは大いにあると期待したい。

図表

永濱 利廣

 第一生命経済研究所 経済調査部 首席エコノミスト

早稲田大学理工学部工業経営学科卒、東京大学大学院経済学研究科修士課程修了。1995年第一生命保険入社。98年より日本経済研究センター出向。2000年より第一生命経済研究所経済調査部、16年4月より現職。国際公認投資アナリスト(CIIA)、日本証券アナリスト協会検定会員(CMA)。景気循環学会常務理事、衆議院調査局内閣調査室客員調査員、跡見学園女子大学非常勤講師などを務める。景気循環学会中原奨励賞受賞。「30年ぶり賃上げでも増えなかったロスジェネ賃金~今年の賃上げ効果は中小企業よりロスジェネへの波及が重要~」など、就職氷河期に関する発信を多数行う。著書に『「エブリシング・バブル」リスクの深層 日本経済復活のシナリオ』(共著・講談社現代新書)、『経済危機はいつまで続くか――コロナ・ショックに揺れる世界と日本』(平凡社新書)、『日本病 なぜ給料と物価は安いままなのか』(講談社現代新書)など多数。